築30年の6畳一間に畳2畳分ほどの狭いキッチン。お風呂とトイレはついているけど、洗面台は無し。
そんな空間が『私』――須藤朱莉(すどうあかり)の城だった。――7時
チーン
今朝も古くて狭いアパートの部屋に小さな仏壇の鐘の音が響く。 仏壇に飾られているのは7年前に病気で亡くなった朱莉の父親の遺影だった。「お父さん、今日こそ書類選考が通るように見守っていてね」
仏壇に手を合わせていた朱莉は顔を上げた。
須藤朱莉 24歳。
今どきの若い女性には珍しく、パーマっ気も何も無い真っ黒のセミロングのストレートヘアを後ろで一本に結わえた髪。化粧も控えめで眼鏡も黒いフレームがやけに目立つ地味なデザイン。彼女の着ている上下のスーツも安物のリクルートスーツである。 しかし、じっくり見ると本来の彼女はとても美しい女性であることが分かる。 堀の深い顔は日本人離れをしている。それは彼女がイギリス人の祖父を持つクオーターだったからである。 そして黒いフレーム眼鏡は彼女の美貌を隠す為のカモフラージュであった。「いただきます」
小さなテーブルに用意した、トーストにコーヒー、レタスとトマトのサラダ。朱莉の朝食はいつもシンプルだった。
手早く食事を済ませ、片付けをすると時刻は7時45分を指している。「大変っ! 早く行かなくちゃ!」
玄関に3足だけ並べられた黒いヒールの無いパンプスを履き、戸締りをすると朱莉は急いで勤務先へ向かった。****
朱莉の勤務先は小さな缶詰工場だった。
そこで一般事務員として働いている。勤務時間は朝の8:30~17:30。電話応対から、勤怠管理、伝票の整理等、ありとあらゆる事務作業をこなしている。「おはようございます」
プレハブで作られた事務所のドアを開けると、唯一の社員でこの会社社長の妻である片桐英子(55歳)が声をかけてきた。
「おはよう、須藤さん。実は今日は工場の方が人手が足りなくて回せないのよ。悪いけどそっちの勤務に入って貰えるかしら?」
「はい、分かりました」
朱莉は素直に返事をすると、すぐにロッカールームへと向かった。そこで作業着に着替え、ゴム手袋をはめ、帽子にマスクのいでたちで工場の作業場へと足を踏み入れた。
このように普段は事務員として働いていたのだが、人手が足りない時は工場の手伝いにも入っていたのである。この工場で働いているのは全員40歳以上の女性で既婚者もしくは独身者である。
朱莉のように若い従業員は居ないので、当然女性達からのやっかみもある。それ故わざと地味で目立たない姿をし、息を潜めるように日々の仕事をこなしていた。 ――17時半 朱莉の退勤時間になった。「すみません、お先に失礼します」
ロッカールームで手早く着替えを終わらせると、事務所にいる片桐英子に挨拶をした。
「あら、須藤さん。お疲れ様。今日も病院に面会に行くのかしら?」
「はい、母が楽しみにしていますので」
「それはそうよね。所でお母さんの具合はどうなの?」
「特に変わりはありません。小康状態を保っている感じです」
「あら、そうなのね……」
「でも、この間主治医の先生が母の病気に効果のある新薬が開発されたそうなので試してみてはいかがでしょうかと言われました」
「あら、そうなのね。その薬でお母さん良くなるといいわね」
「はい、ありがとうございます。では失礼します」
朱莉は職場を出たが、その表情は暗い。
(いくら新薬が出たからって今の私にはとても無理だよ……)
主治医が提案して来た新薬は驚く程高価なものだった。
朱莉の手取りは16万円でパート事務員なので当然ボーナスは無し。 家賃は5万5千円で、何より一番生活を圧迫しているのが、母親の入院費である。無理がたたり、長い間病気を患い、入院生活はもう3年になろうとしている。母には内緒にしているのだが、朱莉は銀行から100万程の借金もしていた。
そんな状態ではとてもでは無いが新薬には手が出せない。 勤務先で後2万円ほど給料を上げて貰えればと思うのだが、所詮小さな町工場。 殆ど自転車操業並みに近いので、とてもでは無いが給料アップは望めない。なので職場には内緒にしているのだが、給料も良い新しい勤務先を探していた。
けれど朱莉は大学を卒業どころか、高校を中退している。その為履歴書を送付した段階でいつも書類選考で落とされていたのだ。
朱莉の父が健在だった頃は社長令嬢として蝶よ花よと何不自由ない暮らしで、学校も私立の名門の高校に通っていた。しかし父の病気により業績は悪化。そして父の死と共に降りかかってきたのは会社の倒産だったのだ。
そこでやむなく高校を中退し、その後は病弱な母と力を合わせて何とか生活していたのだが、働き過ぎで母はとうとう身体を壊してしまい、現在に至っているのである。 いっそのこと、夜の町で働いてみようかと思った事は何回もあったのだが、社長令嬢として育ってきた朱莉には怖くてその世界へ進めずにいた。 考え事をして歩いていると、いつの間にか母の病室の前に着いていた。(いけない、こんな暗い顔していたらお母さんが心配しちゃう)
わざと笑みを作ると、個室のドアをノックした。
――コンコン
「朱莉ね?」
病室の中から母の声が聞こえた。
「お母さん。具合はどう?」
笑顔でベッドの母親へと近づく。
「そうね。今日は少しだけ体調がいいみたいよ」
青白く痩せこけた母が弱々しい笑みを浮かべた。
(また……。嘘ばっかり……!) 母の下手な嘘に思わず涙が滲みそうになるが、ぐっとこらえて朱莉は母に色々な話をした。 職場では皆に良くして貰えているとか、今年は臨時のボーナスが出そうだとか……全て口から出まかせであったが、少しでも母の笑顔が見たくて今夜も嘘を重ねていく。「それじゃ、また明日ね。お母さん」
朱莉は母に挨拶をすると病室を出て溜息をついた。
(はあ……またお母さんに嘘ついちゃった……。お腹空いたな……。でもお給料前だから今夜はカップ麺かな……)朱莉は暗い足取りで家路に着いたのだった――
****
アパートに帰ると郵便受けのA4サイズの封筒が入っていた。「あれ……? 何だろう? この書類……あっ!」
封筒に書かれている社名を見て声を上げた。そこに書かれていた書類は1週間ほど前に履歴書を送った、ある大手の総合商社の社名が印字されていたのである。
「ま、まさかっ! 書類選考が通ったの!?」
急いで鋏で封を切って書類を取り出した。
『須藤朱莉様。この度は当社にご応募頂きまして、誠にありがとうございます。書類の一次選考が通りましたので、面接に進めさせて頂きたいと思います。つきましては下記の日程でご案内させて頂きますが、都合がつかない場合は改めてご連絡下さい。電話番号は……』
朱莉は興奮のあまり、声に出して書類を読み上げていた。
「う、嘘みたい……。初めて書類選考が通るなんて……。何でかなあ……。今までは学歴ではねられているとばかり思っていたけど。でも良かった! 始めて面接に進めるんだから頑張らなくちゃ!」
この時の朱莉は全く気が付いていなかった。この書類選考が通った本当の意味を。そして自分の運命が大きく変わろうとしている事を――
「おい、翔。書類選考が通った彼女達の履歴書だ。ここから最終面接をする人物を選ぶんだろう?」此処は日本でも10本の指に入る、東京港区にある大手企業『鳴海グループ総合商社』本社の社長室である。「ああ……。そうか、ありがとう琢磨。悪いな。嫌な仕事を頼んでしまって」前面大きなガラス張りの広々とした部屋に大きなデスク。そこに書類の山と格闘していた鳴海翔(26歳)が顔を上げた。「お前なあ…。本当に悪いと思っているならこんな真似よせよ。選ばれた女性が気の毒じゃないか」九条琢磨は溜息をつきながら鳴海翔に言った彼は翔の高校時代からの腐れ縁で、今は有能な秘書として必要な存在となっている。「仕方無いんだよ……。早く誰か結婚相手を見つけないと祖父が勝手にお見合い相手を連れて来るって言うんだからな。大体俺には愛する女性がいるのに……。」「まさに禁断の恋だもんな? お前と明日香ちゃんは。普通に考えれば絶対に許されない恋仲だ」琢磨はからかうような口ぶりで言う。「おい、琢磨! 誤解を招くような言い方をするなっ! 確かに俺達は兄妹の関係だが血の繋がりは一切無いんだからなっ!?」翔は机をバシンと叩きながら抗議する。「いや、分かってるって。そんな事くらい。だけど世間じゃ何と言うかな? いくら血の繋がりが無くたって、義理の兄妹が恋仲ですなんて知れたら、ゴシップ記者に追われて会社ごと足元を掬われるかもしれないぞ?」「ああ、そうだ。祖父も俺と明日香の関係に薄々気付いている。だから俺に見合いをするように迫ってきているんだ。考えても見ろよ。俺はまだ26だぞ? 結婚するには早すぎると思わないか?」「ふ~ん。だけど明日香ちゃんとは結婚したいくせに……」翔は苦虫を潰したような顔になる。「祖父も大分年だ……。それに長年癌も患っている。早くても後数年で引退するはずなんだ。その時が来たら誰にも文句は言わせない。俺は明日香と正式に結婚するよ」「そしてカモフラージュで結婚した女性を、あっさり捨てる気だろう?」琢磨は何処か憐憫を湛えた目でデスクの上に乗っている履歴書に目を落した。「おい、人聞きの悪い事を言う。言っておくが、結婚を決めた女性には事実をきちんと説明する。それに自分の人生を数年とは言え犠牲にして貰う訳だから、それなりに手当だって払うし、離婚する際はまとまった金額だって提示する。だか
今日は【鳴海グループ総合商社】の面接の日だ。面接時間は10時からだが朱莉は気合を入れて朝の5時半に起床した。「面接でどんな事聞かれるか分からないからね……。ここの会社のHPでも見てみようかな?」朱莉はスマホをタップして【鳴海グループ総合商社】のHPを開いた。 HPに企業理念やグループ会社名、世界中にある拠点、取引先等様々な情報が載っている。これら全てを聞かれるはずは無いだろうが、生真面目な朱莉は重要そうな事柄を手帳に書き写していき、ある画面で手を止めた。 そこに掲載されているのは若き副社長の画像だったのだが……朱莉は名前と本人画像を見てアッと思った。「鳴海翔……鳴海先輩……」 思わず朱莉はその名前を口にしていた――**** 話は朱莉がまだ高校生、16歳だった8年前に遡る。その頃はまだ父親は健在で、朱莉も社長令嬢として何不自由なく生活をしていた。高校は中高一貫教育の名門校として有名で、大学も併設されていた。朱莉は当時吹奏楽部に所属しており、鳴海翔も吹奏楽部所属で2人とも同じ楽器「ホルン」を担当していた。上手に吹く事が出来なかった朱莉によく居残りで特訓に付き合ってくれた彼だった。 背が高く、日本人離れした堀の深い顔は女子学生達からも人気の的だったのだが、異母妹の明日香が常に目を光らせてい…た為、女子学生達の誰もが翔に近付く事を許されなかったのである。 ただ、そんな中…楽器の居残り特訓で翔と2人きりになれた事があるのが、朱莉だったのである。「先輩……私の事覚えているかな? ううん、きっと忘れているに決まってるよね。だって私は1年の2学期で高校辞めちゃったんだし……」結局朱莉は高校には半年も通う事は出来なかった。高校中退後は昼間はコンビニ、夜はファミレスでバイト生活三昧の暮らしをしてきたのである。「せめて……1年間だけでも高校通いたかったな……」急遽学校をやめざるを得なくなり、翔にお世話になった挨拶も出来ずに高校を去って行ったのがずっと心残りだったのである。朱莉の憧れの先輩であり、初恋の相手。「もしこの会社に入れたら……一目だけでも会いたいな……」朱莉はポツリと呟いた。 ****「では須藤朱莉様。こちらの応接室で少々お待ちください」秘書の九条琢磨はチラリと朱莉を見た。(あ~あ……。可哀そうに……この女性があいつの犠牲になってしま
「あ、あの……この契約書に書かれている子供が出来た場合と言うのは……?」朱莉は声を震わせた。「何だ、そんな事いちいち君に説明しなければならないのか? 決まっているだろう? 俺と彼女との間に子供が出来た場合だ。当然、俺と彼女との結婚は周囲から認めて貰えていない。そんな状態で子供が出来たらまずいだろう? その為にも偽装妻が必要なんだよ」面倒臭そうに答える翔。偽装妻……この言葉はさらに朱莉を傷つけた。初恋で忘れられずにいた男性からこのような言葉を投げつけられるなんて……。しかも相手は履歴書でどこの高校に通っていたか、名前すら知っているというのに。(鳴海先輩……私の事まるきり覚えていなかったんだ……)悲しくて鼻の奥がツンとなって思わず涙が出そうになるのを数字を数えて必死に耐える。(大丈夫……大丈夫……。私はもっと辛い経験をしてきたのだから)「あの……社長と恋人との間に子供が出来た場合、出産するまでは外部との連絡を絶つ事とあるのは……」「ああ、そんなのは決まっているだろう。君が妊娠した事にして貰う為さ」翔は面倒臭いと言わんばかりに髪をかき上げる。(そ、そんな……!)朱莉はその言葉に絶望した。「社……社長! いくら何でもそれは無理過ぎるのではありませんか!?」思わず朱莉は大きな声をあげてしまった。「別に無理な事は無いだろう? 君がその間親しい人達と会いさえしなければいいんだ。直接会わなければ連絡を取り合ったって構わない。勿論その際は妊娠していないことがばれないようしてくれ。それは君の為でもあるんだ」翔の言葉を朱莉は信じられない思いで聞いていた。(本当に……本当に私の為なんですか……?)今、目の前にいるこの人は自分を1人の人間として見てくれていない。本当の彼は……こんなにも冷たい人だったのだろうか?一方の翔はまるで自分を責めるような目つきの朱莉をうんざりする思いで見ていた。(何なんだよ……この女は。だから破格の金額を提示してやってるのに……。それとももっと金が欲しいのか? 全く強欲な女だ)翔が軽蔑しきった目で自分を見ているのが良く分かった。この人と偽装結婚をすれば、お金に困る事は無いだろう。母にだって最新の治療を受けさせてあげる事が出来るのだ。この生活も長くても6年と言っていた。6年我慢すれば、その間に母だって具合が良くなって退院
――翌朝 朱莉は暗い気分で布団から起き上がった。昨日は以前からお休みを貰う約束を勤め先の缶詰工場には伝えていたのだが、今朝は突然の休暇願に社長に電話越しに怒られてしまったのだ。結局母の体調が思わしくないので……と言うと、不承不承納得してくれたのだが……。「これで会社を辞めるって言ったら……どんな顔されるんだろう」溜息をつくと、着替えを済ませて洗濯をしながらトーストにミルク、サラダとシンプルな朝食を食べた。 洗濯物を干し終えて時計を見ると既に8時45分になろうとしている。「大変っ! 急がないと10時の約束に間に合わないかも!」朱莉は慌てて家を飛び出し、鳴海の会社に到着したのは9時50分だった。(よ、良かった……間に合った……)早速受付に行くと、朱莉と殆ど年齢が変わらない2人の女性が座っていた。「あの……須藤朱莉と申しますが……」そこから先は何と言おうと考えていると、受付の女性が笑顔を見せる。「はい、お話は伺っております。人材派遣会社の方ですね。今担当者をお呼びしますので少々お待ちください」受付嬢は電話を掛けた。(え? 人材派遣会社……? あ……ひょっとすると私の素性を知られるのを恐れて……?)受付嬢は電話を切ると朱莉に説明した。「5分程で担当の者が参りますので、あちらのソファでお掛けになってお待ち下さい」女性の示した先にはガラス張りのロビーの側にソファが並べられていた。朱莉は頭をさげると、ソファに座った。(素敵な会社だな……。大きくて、綺麗で……あの人たちのお給料はどれくらいなんだろう。きっと正社員で私よりもずっといいお給料貰っているんだろうな……)そう考えると、ますます自分が惨めに思えてきた。昨日の面接がまさか偽造結婚の相手を決める為の物だったとは。挙句に翔が朱莉に放った言葉。『そうでなければ……君のような人材に声をかけるはずはない』あの時の言葉が朱莉の中で蘇ってくる。そう、所詮このような大企業は朱莉のように学歴も無ければ、何の資格も持たない人間では所詮入社等出来るはずが無かったのだ。その時、昨日面接時に対応した時と同じ男性がこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。「お待たせ致しました。須藤朱莉様。お話は社長の方から伺っております。では早速ご案内させいただきますね」「はい、よろしくお願いいたします」挨拶を交わすと琢磨
――その日の夜朱莉が質素な食事をしているとスマホに着信を知らせる音楽が鳴った。手に取り、早速開いて文面を読む。「あ……」それは鳴海翔からのメッセージでは無く九条琢磨からだった。『今日はお疲れさまでした。婚姻届けが本日受理されましたのでただいまより須藤様の苗字が鳴海にかわりますので、どうぞよろしくお願いいたします。新しい印鑑は後程郵送させていただきます。引っ越し業者もこちらで手配いたしました。3日後に業者がそちらへ伺いますので荷造りの準備を始めておいて下さい。後、結婚指輪をお作りしますので指輪のサイズを教えていただけますか? よろしくお願いいたします』「ふう……」朱莉は溜息をついた。この人物は余程有能なのだろう。今日だけでこれ程の仕事をこなすのだから。恐らく一流大の高学歴に間違いは無い。「やっぱりこういう人が会社では必要とされるんだろうな……あれ? そう言えば……指輪のサイズって……? 困ったな……。指輪なんて一度もはめた事が無いからサイズが分からないし……そうだ、調べてみよう」スマホをタップして、指輪のサイズの測り方を検索してみた。「へえ~。細い紙とセロハンテープがいるのね」早速セロハンテープと付箋を用意し、測ってみたところ朱莉の指輪サイズは7号だった。「7号か……。覚えておこっと」早速スマホにメッセージを打ち込んだ。『こんばんは。本日は色々とお世話になりました。引っ越し業者の件、どうもありがとうございました。明日、ここのアパートの解約をしてきます。指輪のサイズですが、今計測したところ7号でした。どうぞよろしくお願いいたします』(明日は会社に結婚した事と、仕事をやめる事を伝えなくちゃ……)朱莉は貰ったマンションのパンフレットを見た。港区六本木にある高級住宅マンション……いや、恐らく億ション。現在朱莉が住んでいるのは葛飾区の地区30年の古い賃貸アパート。そして職場はここから徒歩20分の缶詰工場。とても通勤出来る距離では無い。それに、これからは毎月150万ずつ振り込まれるのだ。日々の買い物はセレブだけが持つ事の許される「ブラックカード」もう一月16万円のパートをする必要は何処にもない。だけど……。「私が辞めると……困るかなあ……?」朱莉は溜息をついた―― 翌朝――「おはようございます。昨日は突然仕事をお休みしてしまい、申し訳ご
「おい、琢磨。お前……何勝手に結婚指輪なんて頼んでるんだよ」翌朝、社長室に現れた琢磨に翔はいきなり乱暴に指輪のカタログを投げつけてきた。「おい! 翔! いきなり何するんだよ!」琢磨は咄嗟に手で受け取った。「それはこっちの台詞だ! 誰がいつ結婚指輪を用意しろって言った? どんなデザインがよろしいでしょうか? って、いきなり宝石店の店長がメールを入れてきた時には驚いたぞ! しかもその後、そこの社員が受付嬢に俺にこのカタログを渡してくださいと置いて行ったんだからな!?」その言葉を聞いて琢磨の表情は凍り付いてしまった。「な……何だって? 翔……お前、今何て言った?」「だから、何故結婚指輪が必要なんだよ? そんなものがあったら相手が勘違いするだろう? 本当に俺の妻になったんじゃないかって!」「勘違いも何も書類上はお前と須藤さんはもう夫婦だろうが! 結婚式も無しの婚姻届けだけ。一緒に暮らす事も無く、その上結婚指輪まで渡さないつもりだったのか!?」琢磨のあまりの激高ぶりに流石の翔も異変を感じ、声のトーンを落とた。「お、おい……落ち着けよ。俺は別に本当に指輪など必要無いと思ったからだ。大体、あの女を見ただろう? 化粧っ気も無く、アクセサリーの類も何もしていなかった。だから指輪なんか必要無いと思ったんだよ」宥めるように琢磨に言うが、逆に翔の言葉は琢磨の怒りを増幅させただけだった。「何!? お前は結婚指輪をただのアクセサリーのように考えているのか!? 結婚指輪の意味はな……永遠に途切れることのない愛情を意味してるんだよ! 確かにお前と須藤さんは6年間の書類上の夫婦だけになるだろうが、もう少し彼女を尊重してもいいんじゃないのか? 優しくしてやろうとかは思わないのかよ!」「それは……無理だな。俺が愛する女性は明日香ただ1人なんだから。それに無駄に優しくしてあの女が俺に本気になったらどうするんだ? 俺に過剰に愛情を要求し出したり、6年後絶対に別れたくないと言って裁判でも起こされたら? いや、そもそも祖父の引退の状況によっては6年も経たないうちに離婚する事になるかもしれないのに。だから、あの女に必要以上に接触しないのは……むしろ、俺なりの……愛情のつもりだ」「……詭弁だな。それは」琢磨は憐みの目で翔を見た。「何とでも言え。俺は結婚指輪をつけるつもりはない。あの
今日は朱莉が葛飾区のアパートから六本木の億ションに引っ越しをする日である。全ての梱包作業を終え、不動産業者の賃貸状況の査定も何とか敷金で賄えて、追加料金を取られる事も無かった。後はこれで引っ越し業者がやって来るのを待つだけ。今迄自分で使っていた家具や家電は全て処分してしまったので部屋に置かれている荷物は段ボール10箱ばかりにしか満たなかった。朱莉がこの部屋で使用していた家具、家電はどれも1人用の小さな物ばかりで、逆に持っていけば邪魔になるような物ばかりだったからである。「新しい家に着いたら家具を買いに行かなくちゃ」朱莉はぽつりと呟いた。 引っ越し期間があまりにも短すぎた為に結局朱莉はこれから引っ越す億ションの内覧すらしていなかった。なのでどんな家具を買えば良いのかも一切分からず、翔から預かったブラックカードはまだ一度も使った事が無い。がらんとした床に座りながら朱莉は3年間暮らしてきたアパートを改めて見渡した。初めてここに引っ越してきた時は、あまりに狭く、古い造りの部屋に気分が滅入ってしまったが、日当たりが良く、冬でも部屋干しにしていても洗濯物が乾く所が気に入っていた。「住んでいる時はすごく狭い部屋だと思っていたのに……こうしてみると広く見えるものなんだ……」その時、呼び鈴が鳴った。「はい」玄関を開けると引っ越し業者の人達がぞろぞろと現れたので朱莉は面食らってしまった。(ちょっと……一体何人でやってきたの!?)数えると7名もの人数で現れたので、朱莉はすっかり仰天してしまった。一方の引っ越し業者の方も朱莉の荷物の少なさに面食らっている。「あ……あの……引っ越しのお荷物は……?」一番の年長者の男性が朱莉に尋ねてきた。「あの……お恥ずかしい話ですが、段ボール箱……だけなんです……」朱莉は顔を赤くして俯いた。(ああ……恥ずかしい! こんな事なら九条さんに引っ越しの件で連絡を入れれば良かったかも……。でも九条さんも忙しい方だし、私が引っ越し業者に依頼するべきだったんだ……)「申し訳ございません。私からきちんとお話するべきでした」申し訳ない気持ちで一杯になった朱莉は何度も頭を下げるので、かえって引っ越し業者は恐縮する羽目になったのであった。その後、引っ越し業者のトラックを見送った朱莉はマンションの住所を頼に、電車に乗って新しく済む億シ
その夜――21時 朱莉は1人で、億ションの広々とした部屋でベッドの上に丸まって眠っていた。初めはまるで巨大スクリーンに映し出されたかのような夜景に目を見張り、暫く見惚れていたのだが、この億ションはあまりにも広すぎた。朱莉は空しさを感じてしまい、まだ寝るには早すぎる時間なのに、そうそうにベッドに入っていたのである。 朱莉の今使用しているベッドは外国製の大型ベッドで寝心地は最高だった。この家具は、やり手秘書の九条が家具・家電を買いそろえる時間が朱莉には無いと思い、気を利かせて事前に全て買い揃え、部屋にセッティングしてくれていたのである。家具はどれも素敵なデザインばかりで、家電もとても使い勝手が良い物ばかりであった。だがそのどれもが自分で選んだものでは無かったので、ますますここが自分の新居とは思えずにいたのだ。(九条さんは良かれと思って用意してくれていたんだろうけど、出来れば少しくらいは自分で家具を見たかったな……。だけど私のような庶民が選んだ家具だといくら一緒に暮らさないとは言え、時々ここでお客様の接待があるならそれなりの家具じゃないと鳴海先輩に恥をかかせちゃうものね……) こうして1人で場違いなところにいると、何故だか無性に孤独を感じる。あの狭くて古かったけど、日当たりの良かった自分の賃貸アパートが懐かしい。あそこは全て朱莉が1人で選んだものばかりで、まさしく自分1人の城だったのだ。だけど、ここはまるきり自分の家とは思えない。6年経てば出て行かなければならない仮初の自分の住処。いや、状況によってはもっと早めにここを出て行く事になるかもしれない。その為に1年ごと結婚生活の更新と言う形になっているのだ。(今頃鳴海先輩は……この下の階の部屋で明日香さんと過ごしているのかな……?) 防音設備があまりにも整い過ぎているのか、物音ひとつ響いてこないだだっ広い部屋にベッドの中で身じろぎするシーツの音と、朱莉の溜息だけが聞こえるのみだった――****――同時刻 ここはとある高級ショットバー。九条は1人、カウンターでシェリートニックを飲んでいた。「悪い、遅くなったな」そこへ鳴海翔が現れた。「遅い、お前……どれだけ俺を待たせる気だ」仏頂面で九条は鳴海をジロリと睨み付けた。「仕方が無いだろう? 明日香の奴が中々解放してくれないものだから……」「チッ! の
「お荷物は全てお部屋に運んで置きました。こちらがお預かりしていた部屋のキーでございます。お受け取り下さい」琢磨は朱莉に部屋の鍵を渡してきた。「は、はい……。どうもありがとうございます……」(一体九条さんは急にどうしたんだろう? さっきまではあんなに親し気な態度を取っていたのに……)「それでは私はこれで失礼いたします。副社長によろしくお伝え下さい。それでは私はこれで失礼させていただきます」「分かりました……」戸惑いながら朱莉は返事をした。(副社長によろしく等、今迄一度も言った事が無かったのに……)琢磨はペコリと頭を下げると足早に去って行った。その後ろ姿は……何故か声をかけにくい雰囲気があった。(後で九条さんにお礼のメッセージをいれておかなくちゃ……)京極は少しの間無言で琢磨の後ろ姿を見ていたが、やがて口を開いた。「彼は朱莉さんの夫の秘書だと言っていましたよね?」「はい、そうです。とてもよくしてくれるんです。親切な方ですよ」「だからですか?」「え? 何のことですか?」「いえ。今日の朱莉さんは今迄に無いくらい明るく見えたので」京極はじっと朱莉を見つめる。「あ、えっと……それは……」(どうしよう……。京極さんにマロンを託したのに、今度は新しく別のペットを飼うことになったからですなんて、とても伝えられない……)その時京極のスマホが鳴り、画面を見た京極の表情が変わった。「……社の者から……。何かあったのか?」京極の呟きを朱莉は聞き逃さなかった。「京極さん。お休みの日に電話がかかってくるなんて、何かあったのかもしれません。すぐに電話に出た方がよろしいですよ、私もこれで失礼しますね」実は朱莉は新しくペットとして連れてきたネイビーの事が気がかりだったのだこの電話は正に京極と話を終わらせる良い口実であった。「え? 朱莉さん?」戸惑う京極に頭を下げると、足早に朱莉は億ションの中へと入って行った。(すみません……京極さん。後でメッセージを入れますから……)エレベーターに乗り込むと、朱莉は琢磨のことを考えていた。(九条さんはどうしてあんな態度を京極さんの前で取かな? もしかして変な誤解を与えないに……?だけど私と九条さんとの間で何がある訳でもないのに。でも、それだけ世間の目を気にしろってことなのかも。それなら私も今後はもっと注意しな
「マロンに良かったら会って行きませんか? 今連れて来ますので」京極が朱莉に尋ねた。「で、でもマロンに会えば、あの子はまた私を思い出して離れようとしなくなるんじゃ……」「だったら僕が毎日ドッグランへ連れて来るので、朱莉さんもその時にここへ来ればいいじゃないですか」「え……?」京極の目は真剣だった。「京極さん。何を仰っているのですか? 手放さなければならなかったマロンを引き取って貰えたのは本当に感謝します。そして今もこうしてドッグランへ連れて来てくれて遊ばせてくれているんですよね?」朱莉は遠くでマロンとショコラが遊んでいる姿を見つめる。「はい」「でも、本当はお忙しいんじゃないですか? 私は毎日出かけていますが、マロンを託してから京極さんにお会いするのは今日が初めてなんですよ?」京極は目を伏せて黙って話を聞いている。「京極さんは社長と言う立場で、多忙な方だと思います。毎日ドッグランで遊ばせるのは難しいと思いますよ? 私とマロンを会わせてくれようとするお気持ちには本当に感謝致しますがご迷惑をお掛けすることは出来ません。時々マロンの様子をメッセージで教えていただけるだけで、もう十分ですから」京極は3日に1度はマロンの様子を動画とメッセージで朱莉に報告してくれていたのだった。「朱莉さん。マロンに会わせる為だけの理由じゃ駄目なら……僕の本当の気持ちを言いますよ」「本当の気持ち……?」「はい。貴女のことが心配だから、何か力になれないかと思っているんです。悩みがあるなら相談にも乗りますし、助けが必要なら助けてあげたいと思っているんです。僕でよければ」朱莉は京極を黙って見つめた。何故、この人はそこまで真剣な顔でそんな事を言ってくるのだろう? 朱莉には不思議でならなかった。やはり、同情されるほど今迄自分は暗い顔ばかりしていたのだろうか……?「ここに引っ越してきて、初めて朱莉さんを見かけた時、貴女は泣いていました。その次に見かけた時もやはり貴女は泣いていました。いつもたった1人で……。僕がシングルマザーの家庭で育った話はしていますよね? 母は僕を育てる為にいつも必死で働いていました。僕に心配かけさせない為に、いつも笑顔で過ごしていました。けど夜布団に入っていると、隣の部屋にいる母が声を殺してよく泣いていました。だから僕は母の為にも頑張ってここまできた
琢磨がキャリーバックの中に入れたウサギを抱え、2人で店を出ると朱莉はマロンのことを考えた。(マロンを手放してまだ一月ほどしか経っていないのに……私って薄情な人間なのかな……?)そんな朱莉の横顔を琢磨はじっと見ていたが、明るい声で話しかけてきた。「朱莉さん。このウサギ、紺色をしているからコンて名前はどうかな? あ、でもそれじゃまるで狐みたいだな? 朱莉さんならどんな名前にする? 早く決めないとコンて名前で呼んじゃうぞ?」「ええ? い、今決めるんですか……? う~ん、どうしよう……。あ、それじゃネイビーってどうですか?」「え……ネイビー……?」琢磨は一瞬目を見開き……次に声を上げて笑い出した。「コンだからネイビー? ハハハ……これは面白いな。うん、ネイビーか……素敵な名前じゃ無いかな? それじゃ、今日からこのウサギの名前はネイビーだ」そんな琢磨を見て朱莉は思った。(やっぱり九条さんは相当私に気を遣ってくれているんだ。私を契約婚の相手に選んだから? そんなに気にする事は無いのに。だって九条さんのおかげでもう二度と会う事は無いだろうって諦めていた翔先輩に再会出来たのだから……)朱莉の考えではむしろ琢磨には感謝したい位なのだが、それを伝えれば益々恐縮してしまうのでは無いかと思うと言い出せなかった。その後も2人は他愛無い会話を続けながら、帰路についた——**** 2人で億ションに辿り着いた時、朱莉はドックランで遊ばせている人物を見つけた。 (あ……あの人は……!)すると、相手も朱莉の存在に気が付いたのか振り向いた。「きょ、京極さん……」「あ……朱莉さんじゃないですか! ずっと姿を見かけなかったので心配していたんですよ!」その時、京極は朱莉の隣に立っていた琢磨を見た。「……」琢磨は何故か先程とは打って変わって、険しい顔で京極を見つめている。(え? 九条さん……? どうしたのかな?)朱莉は不思議に思い琢磨の顔を見上げた。一方の京極も何故か挑戦的な目で琢磨を見つめている。先に口火を切ったのは京極の方からだった。「こんにちは、初めまして。貴方ですか? 朱莉さんの夫で、彼女に折角飼った犬を手放す様に言ったのは。貴方は夫のくせに妻を平気で悲しませるんですね?」京極は喧嘩腰に琢磨に話しかけてきた。「夫?」琢磨が小さく口の中で呟くのを朱
明日香が流産をしてから、早いもので半月が過ぎ、季節は3月になっていた。あの夜、琢磨に説得された翔は、朱莉に詫びのメッセージを送った。自分勝手な思い込みで心無い言葉を朱莉にぶつけてしまった非礼を詫び、明日香が朱莉に感謝していた旨を綴った。そしてこれからも契約婚の関係を続けて貰いたいと書いて朱莉にメッセージを送ったのだった。勿論朱莉からの返信は快諾の意を表す内容であったのは言うまでも無い。翔は前回の非礼の意味も兼ねて、今月からは今迄月々手当として朱莉に振込していた金額を増額させ、朱莉は毎月150万円もの金額を貰うことになったのだった——****—―日曜日 朱莉は琢磨と一緒に買い物に来ていた。「何だか申し訳ないです。翔さんにこんなに沢山お金を振り込んでいただくなんて……」琢磨と並んで歩きながら朱莉は口にするも、琢磨はにこやかに答えた。「いえ、気にしないで下さい。そのお金は明日香さんを助けてくれた副社長のお礼の意が込められているのですから」「明日香さんの……」あの日、明日香が救急車で運ばれた夜のこと。明日香の母子手帳を朱莉が必死に探し出し、救急車の中で激しい腹痛で苦しんでいる明日香の手をギュっと握りしめて励ましの言葉をかけ続けた朱莉。明日香の中で感謝の気持ちが芽生えてきたのか、朱莉に対しての態度が軟化してきたのだ。そして犬よりも小さめで静かな小動物ならあの部屋で別に飼育しても良いと明日香の許可を貰えたのである。そこで朱莉はウサギを飼うことに決めたのだが……。「あの……九条さん。折角のお休みのところ、わざわざペットショップについて来てもらわなくても、私なら一人で大丈夫ですよ?」隣りを歩く琢磨を見上げた。「いえ、いいんですよ。ペットを飼うには色々荷物も必要になりますからね。荷物持ち位させて下さい」しかし朱莉は申し訳ない気持ちで一杯だった。琢磨は翔の第一秘書と言うだけあり、日々多忙な生活を続けている。それなのに貴重な休みを自分の買い物につき合わせることに肩身が狭く感じてしまうのであった。今回、何故琢磨が朱莉の買い物に付き合う流れになったかと言うと、翔から琢磨にペット飼育に関する明日香のメッセージを朱莉に伝えて欲しいと頼まれたのだ。琢磨は朱莉に翔からの伝言を伝えたると朱莉が遠慮がちにそれならウサギを飼ってみたいと申し出てきた。そこで今
億ションを足早に出ると、琢磨は翔に電話をかけた。『もしもし……』5回目のコールで翔が電話に応じた。「おい、翔。お前まだ病院にいるんだよな?」『あ、ああ。医者の話では今日は全身麻酔で子宮の中を綺麗にする処置をしたそうだから、付き添いをするように言われているんだ。お前は今何処にいるんだ? ひょっとして外にいるのか?』「ああ。そうだ。気の毒な朱莉さんの所へ行っていた所だ。翔、人のことを言えないが……お前は最低な男だよ。明日香ちゃんに対する優しさをほんの少しでも朱莉さんに分けてやろうとは思えないのか? いいか? 朱莉さんを傷付けたのはお前だけど……彼女を慰められるのも……お前しかいないんだよ!」歩きながら琢磨は吐き捨てるように言った。『琢磨。お前……』「いいか? 朱莉さんは今回の事で契約婚を打ち切られるのじゃ無いかって心配していたぞ? 彼女はまだお前との契約婚を望んでいる。もしお前が朱莉さんとの契約婚を打ち切ろうと考えているなら俺が許さない。絶対に阻止するからな!?」すると電話越しから狼狽えた声が聞こえた。『ま、まさかそんな事考えるはず無いだろう? 俺は今……すごく後悔してる。つい、頭に血が上ってあんな酷いことを朱莉さんに言ってしまうなんて……。もう何回も俺は朱莉さんを傷付けてしまった。我ながら最低な男だと思っている。だけど……明日香が絡んでくると俺は……!』「それはお前が明日香ちゃんに負い目があるからだろう? お前……本当に明日香ちゃんのことが好きなのか? 本当は罪滅ぼしの為に愛そうとしているだけなんじゃないのか?」『! ま、まさか……俺は本当に明日香の事を……』しかし、そこまでで翔は言い淀んでしまった。「まあ、別に2人のことは俺には関係ないけどな。ただ朱莉さんのことなら今後俺は口を出させて貰うぞ。俺にはお前と言う男を紹介してしまった罪があるからな」『琢磨……』受話器越しの翔からため息交じりの声が聞こえた。「何だよ? 何か言い分があるなら聞くぞ?」『いや、特に無いよ。とにかく朱莉さんにはお前から伝えておいてくれないか? 契約婚は続けさせて欲しっいって』「なら、お前からメッセージを送れ」琢磨はぶっきらぼうに言った。『だが、俺から連絡をすると……怖がられるだろう?』「お前……! ふざけるなよ! 彼女……朱莉さんはずっとお前との連
「朱莉さん……少しは落ち着きましたか?」玄関で琢磨は朱莉を見下ろし、尋ねた。「は、はい……申し訳ございませんでした。つい取り乱して……あ、あんな風に泣いて……。お恥ずかしい限りです……」俯く朱莉。いい大人があんな風に子供の様に泣きじゃくる姿を琢磨に見せてしまった事が恥ずかしくて堪らなかった。「そうやっていつも1人で泣いていたんですか? 辛い時や悲しい時、いつも……たった1人で……」琢磨の何処か苦し気な声に朱莉は顔を上げた。その顔は悲しみ満ちていた。「九条さん?」すると琢磨は突然頭を下げ、ポツリポツリと語りだした。「朱莉さん。私は副社長の部下であり、そして親友でもあります。親友は……禁断の恋と、会長に見合いを強いられ、苦しんでいました。そしてついに世間を……会長の目を胡麻化す為に『契約婚』という手段を選んだんです。そして私も親友と会社の為に面接と言う手段を取り、募集し……選ばれてしまったのが朱莉さん。貴女だったんです。書類選考をしたのは、他でも無い……この私です」「……」朱莉は黙って話を聞いていた。「私も朱莉さんをこんな辛い立場に追いやった人間の1人です。いや……最初に朱莉さんを副社長に紹介したのが私だから一番質が悪い男です。だからこそ、私は貴女に罪滅ぼしがしたい」「罪滅ぼし……?」「はい、もし朱莉さんがペットを飼いたいと言うなら私が貴女の代わりに飼って育てます。そして休みの日は貴女にペットを託します。もし、風邪を引いたり、体調を崩したりした場合は時間の許す限り、貴女の元へ駆けつけます。貴女が翔と契約婚を続けるまでは……出来るだけ朱莉さんの力になります。いや……そうさせて下さい」琢磨は頭を下げた。その身体は震えている。「な、何を言ってるんですか九条さん! そんなこと九条さんにさせられるわけないじゃありませんか!九条さんは翔さんの重責な秘書ですよ? 私のことなら大丈夫です。高校を卒業してからはずっと1人で生きて来たんです。思った以上に強いんですよ? でも今回のことはちょっと……堪えてしまいましたど……」「それは副社長の事が好きだから……ですよね?」琢磨の顔は先ほどよりも悲し気に見えた。「!ど、どうして……?」そこから先は朱莉は言葉にならなかった。「朱莉さんを見ていればそれ位分かりますよ。でも……朱莉さん。悪いことは言いません。翔
真っ暗な部屋の中――朱莉は電気もつけずに部屋の隅に座り込んでいた。翔に冷たい言葉を投げつけられた後、朱莉は何処をどうやって自宅に帰って来たのか思い出せなかった。気付けば部屋の隅に座り込んでおり……部屋の中は闇に包まれていた。ぼんやりとした頭の中で朱莉は思った。今は何時なんだろう? 毎日欠かさず通っていた母の面会も今日は行く事が出来なかった。……きっと母は心配しているだろう……。朱莉の手には翔との連絡用スマホが握り締められていた。何処かで朱莉は期待していたのだ。ひょとしたら翔から連絡が入ってくるのでは無いだろうかと……。誤解してすまなかったと詫びの連絡が来るのでは無いかと心の何処かで密かに期待していたのだ。けれど何時間たっても朱莉のスマホには翔からの連絡は入って来なかった。代わりに朱莉の個人的に所有するスマホには何件も着信が入っていたが……朱莉はそのスマホを確認する気力も持てないでいた。突如、壁掛け時計が夜の9時を示す音を鳴らした。「あ……もう、こんな時間だったんだ」しかし、今の朱莉はなにもする気力が湧かなかった。そして今もこうしてかかってくるはずも無い翔からの電話を待ち望む自分がいる。朱莉の目に涙が浮かんできた。(馬鹿だ……私。あれ程翔先輩に冷たい言葉を投げつけられたのに……顔を見たくないって言われたのに……今もこうして翔先輩からの連絡を待っているなんて……)今迄我慢していた涙がとうとう堰を切って溢れ出してきた。朱莉は自分の膝に頭を埋め、声を殺して泣き続けた。本当はこんなことをしている場合では無いのに。3年間で高校を卒業する為に勉強だってしないといけないし、レポートも書かなければならない。それに明日香には英会話の勉強もするように以前言われたことがあったので、並行して朱莉は英会話の勉強も行っていた。やらなければならないことは沢山あるのに……今は何も手につかなかった。(マロン……こんな時、マロンが側にいてくれたら……)あの温かい身体を抱きしめて……自分の悲しい気持ちを、寂しい気持ちを慰めて貰うことが出来たのに……。(誰か、誰でもいいから私を助けて……。お母さん……いつになったら一緒に暮らせるの……?) その時――玄関のインターホンが何度も鳴り響く音が聞こえてきた。こんな時間に誰だろう……? 朱莉は立ち上がる気力すら無かった。それで
明日香は病室で今も眠っている。そんな明日香を翔は心配そうに見守っていた。そして先程、朱莉に投げつけた言葉を思い返していた。(少し言い過ぎてしまったか……? だが朱莉さんは明日香に色々嫌な目に遭わされてきていた。だから明日香の体調の悪さをわざと見過ごして……)その時、明日香が突然寝言を言い始めた。「いや……お母さん……置いて行かないで……。いい子になるから……私を……捨てないで……」明日香の目から涙が頬を伝って流れていく。「明日香……あの時の夢をみているのか……?」翔は明日香の手をギュッと握りしめると、不意に明日香が目を開けた。「翔…… ?ここはどこ……?」「明日香、良かった! 目が覚めたんだな!?」翔は半分泣いたような笑みを浮かべると明日香の顔を覗き込んだ。「あ……そうだったわ……。私は夜突然お腹が痛くなって……。それで……お腹の子供は……?」明日香はまだ夢の中なのか、ぼんやりした声で天井を見つめた。「ああ……。今回は……駄目だったよ……」「そう……。やっぱり……」明日香の言葉が翔は引っ掛かった。「やっぱり……? どういう事だ?」「医者に言われたのよ……。エコーで胎のうって言うのが確認できなかったから……もしかしたら子宮外妊娠かもしれないって……」「何だって? その話……今初めて聞いたぞ?」先程の医者の説明でも流産としか翔は聞かされていなかったのだ。「今の話……朱莉さんも知らなかったのか?」「ええ。だって……言いたくなかったのよ……」明日香は目を閉じた。確かにプライドの高い明日香のことだ。子供が出来たと話しても、産むことが出来ないかも知れないなど言えるはずも無いだろう。「明日香……辛かっただろう? すまなかった。具合が悪かったのに側にいてやれなくて……」翔は明日香の手を強く握りしめると明日香がふいに尋ねた。「朱莉さんは……何処?」「朱莉さんならもう帰ったぞ? 一体どうしたんだ? お前が朱莉さんの名前を口にするなんて」「そう……帰ったの。折角お礼を言おうと思っていたのに」明日香の呟きに翔は耳を疑った。「明日香……今、何て言ったんだ? 朱莉さんに……お礼だって……?」「ええ……。だって彼女は具合が悪くなってすぐに救急車を呼んでくれたのよ。それに救急車が来る間に私の母子手帳を探し出してくれたし……運ばれている最
「朱莉さん。君に話があるんだ。病院の外で話さないか?」「は、はい」朱莉は首を傾げながらも返事をした。しかし琢磨は翔の切羽詰まった様子が気になり、声をかけた。「当然、俺も話に混ぜて貰うからな?」「……好きにしろ」そして翔を先頭に、朱莉と琢磨は病室の中庭へと向かった。中庭に着き、ベンチに座ると翔は朱莉を睨み付けるような目で問い詰めてきた。「朱莉さん。昨日は明日香とずっと一緒にいたのに……何故君は明日香の異変に気付かなかったんだ?」「え……?」まるで責め立てるような言い方に朱莉の肩がビクリと跳ね、琢磨は驚いた。「翔! お前……何言ってるんだ!?」しかし琢磨の声が耳に入らないのか、朱莉を責めるのをやめない。「朱莉さん……君は明日香と同じ部屋にいたんだろう? しかも隣の部屋で寝ていれば苦しがる明日香の異変にすぐ気が付いたはずだ。……違うか?」「あ、あの……わ、私はあの時はまだ眠っていなかったんです。だから明日香さんの苦しんでいる声にすぐ気が付いて……それで……」「それを俺に信じろと言うのか? もしかして君は苦しがっている明日香を放置して、お腹の子供を流産させようと思っていたんじゃないのか? 明日香は君に子供を育てさせようとしていたからな」翔は眼に涙を浮かべながら朱莉を詰る。「! そ、そんな……!!」朱莉の口から悲痛な声が洩れる。「翔! 本気でそんな事を言ってるのか!? お前気でもおかしくなったんじゃないのか!? 大体朱莉さんにそんな真似出来るはずが無いだろう!?」琢磨は翔の胸倉を掴むと怒鳴りつけた。「うるさい! 俺と……明日香のことなんか何も……お前達2人には分からないくせに!」翔はまるで血を吐くように叫び、再び朱莉を睨みつける。「今回……明日香に命の危険は無かったが、もう二度と明日香を見捨てるような真似はしないでくれ。最低でも後5年は君と俺は契約婚という雇用関係を結んでいるんだから……。分かったか?」そしてフイと朱莉から視線を逸らせた。「悪いが今日はもう帰ってくれ。今はこれ以上君の顔を見ていたくないんだ」「!」朱莉はその言葉に身体を震わせ……俯いた。「わ……分かりました。ほ、本当に申し訳……ございません……でした……」最後の方は今にも消え入りそうな声だった。「翔! お前っていう奴は……!」「うるさい、琢磨。今日は